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シルクの辿ったみち ~日本のシルクのあゆみ~
2018.05.16

紀元前に中国で生まれたシルク(絹)は、シルクロードから世界中に伝わり、日本にもやってきました。

シルク(絹)は日本の産業を大きく発展させ、いまもわたしたちの生活を豊かにしてくれています。純国産のシルク(絹)については以前のコラムでもお話しましたが、シルクはいったいいつ日本に伝わり、どのような発展をとげて今日にいたるのでしょうか。

今回は、日本での養蚕・シルク(絹)産業についての歴史をひも解いていきましょう。

 

日本のシルク(絹)のはじまり

じつは、日本にいつシルク(絹)が伝わったのかは定かではありません。

しかし、シルクロードができるよりはるか前の弥生時代の遺跡から絹織物が出土しています。このことから、弥生時代にはすでに養蚕が中国から朝鮮半島経由で始まったのではないかと考えられています。

佐賀県の吉野ケ里遺跡からは、中国へ贈っていたと推察される様々な種類の絹織物が出土しており、中国の絹織物とは糸使いなどが異なっていました。

すでに日本独自の養蚕と絹織り・染色の技術が発展していたのでしょう。日本書紀や古事記にも養蚕に関する記述がみられます。

大化の改新の頃には中国・朝鮮半島からの渡来人が増え始め、養蚕・製糸・染色の先進的な技術が伝わりました。養蚕はいまの北九州あたりから西日本一帯へと広まり、中国・朝鮮半島からの技術も交えて、各地で独自の発展を遂げていきます。

このように朝鮮半島経由で日本へ持ち込まれたシルク(絹)の歴史は、中国のシルクロードを「西のシルクロード」と呼ぶのに対し「東のシルクロード」と呼ばれるようになりました。

 

養蚕の拡大

奈良時代になると養蚕は、北海道・東北をのぞき日本全国で行なわれるようになりました。地方ごとにオリジナルの養蚕・製糸・織りの技術が発展していき、産地ごとに等級が決められ「税」として納められるようになります。

このころから、貴族たちの服の素材やお金と同じような価値を持つ「高級品」という扱いであったことがわかりますね。

平安時代に入って、現在の着物のような日本伝統の服装文化へと変化し、独自の文様の絹織物が作られるようになりました。しかし、鎌倉時代には武士たちのあいだで「質素」であることが美徳とされはじめ、絹織物の一大産地であった京都の織物が衰退してしまいます。

その代わりに地方の絹産業の振興が活発化し、京都のハイクオリティな絹織物の技術が地方にもどんどん伝わっていくきっかけとなりました。

 

伝統の絹織物の誕生

室町時代~安土桃山時代に、中国から撚糸(糸に撚りをかける)技術が伝わり、あの「西陣織」が誕生します。現代でも親しまれ続けている「丹後ちりめん」や「京ちりめん」が作られるようになったのも、このころから。

そして小袖飾りや能装束など実用性を鑑みない嗜好品としての絹製品も作られるようになり、それらは自らの権力を誇示するものとして扱われていました。

この時代、シルク(絹)のその美しさや質の良さは高級品の範疇を超えつつあったようです。しかしそれもつかの間、戦乱の絶えない激動の時代のなか日本のシルク(絹)のクオリティはどんどん落ち、高級品とは名ばかりの劣悪なものになっていってしまうのです。

 

輸出品としてのシルク(絹)

戦乱の世が終わり平穏を取り戻した日本。粗悪品に成り下がってしまった絹の品種改良が進められます。努力の甲斐あって、江戸時代中期には日本の絹製品は、一大シルク(絹)国家・中国産の絹製品に引けをとらない上質なものへとなりました。

高級品としての地位をとりもどした絹製品は、やがて武士以外の人々の着用が禁止されるまでになります。それらや、先ほどお話した小袖飾りや能装束など高級織物の生産のため、中国から生糸の輸入が始まりました。

生糸の「代金」として日本は国産の銅を充てていましたが、絹織物の需要拡大で中国から生糸を買いすぎてしまい、国内の銅がなんと半分以上なくなってしまったのです。この由々しき事態に幕府は、中国から生糸を輸入しなくて済むようにと養蚕を奨励する「お触れ」を出したというエピソードもあります。

武士だけが着用を許されるほど高級な絹製品。下級の武士たちが手に入れることは容易ではありませんでした。そんな下級武士たちを救済するため・藩の財政立て直しのため、各地で絹織物の技術発展の熱はますますヒートアップ。

西陣織の産地・西陣の高い技術を学んだ各地の職人たちが生み出した絹織物は「友禅染(金沢)」「結城織(茨城)」「米沢織(山形)」と呼ばれ重宝され、現代まで愛され続ける上質な絹織物となっていきます。

 

製糸産業の近代化と発展

江戸時代末期ごろからはじまった製糸の機械化は、明治時代に入ると殖産興業(国家の近代化を推進した明治政府による様々な政策)の後押しもありさらに勢いを増します。

関東・中部地方をメインに近代的な製糸工場がぞくぞくと操業を開始します。日本の製糸を語るうえで忘れてはならない「富岡製糸場」ができたのもこのころ。

そして日本での製糸産業の近代化にはもうひとつ、意外な理由があります。それは蚕の病気。

当時シルク(絹)の主要産地だったヨーロッパ中で「微粒子病」という蚕の病気が蔓延し、世界の養蚕が壊滅状態に陥りました。そのため、日本産の絹の需要が激増。輸出量が爆発的に拡大したのです。

シルク(絹)バブルは昭和初期まで続き、1900年ごろには中国を抜き世界トップのシルク(絹)輸出国となりました。農家全体の約4割が養蚕を行なっていたというのですから、どれほど盛んであったかが容易に想像できますね。

 

文明開化をささえたシルク(絹)

最盛期には世界シェアの約7割を占めていた日本の絹。生糸で稼いだお金でさらに近代化を進め、絹は日本の主要産業となりました。文明開化とともにスタートし、日本の経済をうるおわせ近代化に大きく貢献したシルク(絹)は、日本の産業の発展と近代化を語るうえで決してかかせない存在でした。

しかし、その栄華にも陰が見えはじめます。

アメリカから広まった世界恐慌・低価格で大量生産可能な化学繊維の誕生で、生糸の需要はしだいに落ち始めました。終戦後の復興期、昭和40年ごろまで養蚕はふたたびピークを迎えますが、農業人口の減少・都市化・宅地化・そして化学繊維の発達と需要拡大で、養蚕・製糸はみるみる衰退していったのです。

近代化の象徴であった富岡製糸場もしだいに生産量が減り、昭和62年の3月、ついにその長い歴史に幕を閉じました。

 

日本のシルク(絹)のいま

かつて世界トップまでのぼりつめた日本のシルク(絹)。しかし現在の日本の繭生産量はピーク時の約1割ほどしかないそう。

しかし、日本のシルク(絹)の可能性が絶たれたわけではありません。繊維製品だけでなく化粧品・健康食品・医療などさまざまな用途に開発・研究が進められています。

2017年には現代のテクノロジーを駆使した国内最大の養蚕施設が九州にオープンするなど、日本シルク(絹)の再興にむけての取り組みが行われているのです。

 

シルク(絹)の可能性は無限大

形は変われど、わたしたちの生活を豊かにするための開発が進んでいるということは、シルク(絹)そのものに大きな魅力があるからではないでしょうか。

国産シルク(絹)の価値も徐々に見直され、わたしたち日本人が古くから守り受け継いできた伝統を大切につくられた日本のシルク(絹)は、新しい技術やアイデアとともにこれからも未来を広げていくことでしょう。

栄枯盛衰とはいいますが、シルク(絹)の魅力が衰えることはこれからもありません。まずはわたしたちがシルク(絹)を身近に感じ、良さを知ることが国産シルク(絹)再興への第一歩なのかもしれません。